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藤の屋文具店

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一緒に暮らしたクルマたち 1~6

        【一緒に暮らしたクルマたち】

           フロンテクーペGX


 最初に手にいれたのは、フロンテクーペだった。まだ軽自動車の
排気量が360CCでナンバーが白かった時代、我慢グルマと呼ばれ
た軽自動車のなかに、その明確なコンセプトと優秀な設計により、
名車と呼んで差し支えない二台のクルマがあった。
 一台は、エスシリーズの商業的失敗を糧に大成功をおさめたN3
60を利用し、そこへマンボウを連想させる異形のボディを架装し
た、「ホンダZ」である。この、ビザリーニの習作にも通じるもの
のあるZとともに、僕にはもう一台のスポーツクーペが気になって
ならなかった。

 最初にはいった獣医の大学で、僕は春先に免許をとった。都会の
大学とは違い、酷寒の十和田市では、クルマはやはり必需品なので
ある。今ならさしずめ、四駆でも買ってくれとねだるところだが、
当時はランクルとジープくらいしかなく、そんなもんは学生の手の
届くクルマではなかった。で、僕は、たまたま見つけた、低くてか
っこいい「フロンテクーペ」を、中古で買ったのである。
 当時、僕は、ある女の子に夢中になっていた。50CCのバイクで
はデートはできない。自分に自信のない若い男の多くがそうである
ように、当時の僕は、自分を飾りたてるアイテムとしてのクルマに、
とても興味があった。そういう視点では、車高が1メートルとちょ
っとのこのスポーツクーペは、とても魅力的な猫科の猛獣のように
思えて、僕の購買意欲をいたく刺激したのである。

 さてこのクルマ、見てくればかりでなくて中身も「スポーツカー」
だった。世界でも希な2サイクル3気筒のエンジンは、360CCか
ら37馬力を絞り出す。二輪レーシングバイクのノウハウを下敷き
にしてアレンジされてはいるものの、3000回転以下では見るべ
きトルクを持たない。
 その神経質なハイパワーエンジンを座席の後ろに登載するシャシ
ーは、フロントがダブルウィッシュボーンにリヤがセミトレーリン
グアームの全輪独立、冷却機構はふたつのラジエータを持つ水冷で
ある。当時の普通車の「GT」なんぞ、これと比べたらトラックと
選ぶところはなかった。

 回転を5000に維持し、スタートと同時にさらに踏み込む。長
めの半クラッチで回転を落とさぬように発進し、4000でつない
で7200まで引っ張る、心持ち戻してセカンドにつなぐ、リアエ
ンジンの長いリンケージを介したあいまいなシフトを強引にたたき
込み、僕は奥入瀬のコーナーを駆け抜けた。
 腰を中心にぐいぐいと回り込む感触と、ゾーンさえ外さなければ
パワフルなエンジン、現代のおとなしいミッドシップなんか問題に
ならぬ、カミソリのように鋭くて、そして脆いクルマだった。今も
昔も、僕は優しいだけの退屈なものより、シャープでパワフルなも
のに心ひかれるのである。

 このクルマを手にいれた夏、僕は、お気に入りの彼女と二人のG
Fと二匹の黒猫を積み込み、往復1200キロのグランドツーリン
グに出かけた。
 120キロ走ったところで3人をおろし、陽が傾きかけた東北の
山々に向かって僕はステアリングを切った。助手席では二匹の黒猫
が、彼女のこさえたクッションの上で丸くなって眠っている。
 日本の背骨を貫通して走る深夜の国道を、角型のヘッドライトが
頼りなく照らす。深夜便のトラックたちと速度が同じなのか、どこ
まで走ってもだれにも追いつかず、だれも追いついてはこなかった。
トリップメーターの数字だけが僕の存在を証明しているような、孤
独な旅だった。
 
 そして、その孤独の中にひそむ「自由」の感触が、それまで飼い
慣らせると信じていた僕の心の奥のなにかを、ゆっくりゆっくりと
目覚めさせようとしていたのであった。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

            ホンダN3


 大学生活も軌道に乗り始め、僕はふたつのアルバイトをレギュラ
ーで抱えていた。ひとつは、アド・リサーチというマーケティング
リサーチの会社で、新製品や新しいCMのテストをする実行部隊の
ディレクターである。このチームは、通常6人の女子大生と二人の
主婦からなり、公民館などの会場でアンケート調査を行うものであ
る。きれーなおねーさんが質問と回答の筆記をし、その回答者は、
えっと、物おじしない(^^)主婦が会場の近くで引きずり込んでくる
わけだ。僕の役目は、重い機材をライトバンで運搬したり会場の支
払をしたり、あとは、これらの女性陣を快適に仕事ができるように
環境を整えることである。
 女性を部下として持った経験のある方ならおわかりのとおり、こ
れは非常に大変な仕事である。そう、なるべく使いたいと思う優秀
なスタッフほど、ご機嫌よく稼働していただくには環境整備が必要
なのだ。この職場で、そこいらのおっさんがコンプレックスでうつ
むいてしまうようなおねーさん方にびしばし仕込まれたため、僕は
いささか、女性サイドの思考へと引きずられたきらいがあるくらい
である。

 そしてもうひとつのバイトが、民間車検場を擁するホンダ系ディ
ラー、「小平ホンダ」での中古車部門でのアルバイトであった。な
ぜこんなバイトを選んだかというと、クルマを安く買いたかったの
だ。高い時給のバイトで購入資金を稼ぐよりも、中古車屋で安い給
料で働いてクルマを原価で買う方が得だと判断したのである。

 さて、スカGの車検が切れ、僕は次のクルマを物色していた。サ
ニーやシビックの中古車は人気があるので、人気がなくて安いクル
マはないかと下取りの発生を待っていた。当時は、CVCCという
低公害エンジンのウリモノのおかげで、シビックがビシバシ売れて
いた。走行距離のけた外れに多いバスやトラックが野放しのままで、
こんなもん使ったところでしょうがないのだが、インテリのおっさ
んはシビックを好んで買った。ま、この価格のクルマの中で唯一、
ビンボーに見られない理論武装が可能なクルマのせいもあったのだ
ろう。当然、下取りには安いクルマが多かった。
 で、ある日、下取りにN3が入ってきた。英国のミニのコンセプ
トをちょんぼして作られた軽自動車である。このクルマは、トライ
アンフやBSAに対抗してアメリカで量販をもくろみ、商業的には
失敗したモーターサイクル、「CB450」のエンジンを手直しし
て使用していた。当時の規格にあわせて排気量を小さくし、ヘッド
をシングルカムに取り替えて特徴的なトーションバー・バルブスプ
リングを一般的なコイルに代え、低速トルクを少し太らせて乗用車
用にディチューンしたのである。この生い立ちを知る英国の雑誌は、
デビュー時の「N360」を「サイクルカー」だと呼んだが、さす
が口の悪・・・ウィットに富んだ英国人である。僕は、このクルマ
を5万円で手にいれた。

 当時は前輪駆動がまだ一般的ではなく、富士重工のすばる100
0と日産チェリーくらいしか国産にはなかった。ユーザーも、その
運転特性に馴染みがないためか、操作ミスによる事故が時々起き、
少し前にマスコミがAT事故で大騒ぎしたように、FF車の安全性
について語る事がブームだった。

 ミニと同じように、というよりバイクと同じように横向きに置か
れたエンジンから、コンスタントメッシュタイプのこれまたバイク
と同じミッションを介して前輪を駆動し、カムチェーンのしゃりし
ゃりしゃりという音をなびかせ、僕のN3は関東地方の山道をよく
走り回った。一度、GFと富士山まで遠出していて、オイルが空っ
ぽになったのに気づかずにエンジンを焼き付かせてしまったことが
ある。オイルパンに残ったヘドロに望みを託し、温度が上がりそう
になるたびに停止して冷却しながら、深夜の山道をしゃりしゃりと
走り、下宿の駐車場の20メートル手前でついに動かなくなった。

 それでも、プラグ孔からオイルを垂らしてギアをトップに入れ、
うんうんと前後にゆすったらエンジンは生き返った。スーパーカブ
もそうだが、僕はホンダの空冷エンジンには、今でもこの世で最高
の信頼感を抱いている。16バルブよりもVTECよりも、僕はこ
の小さなクルマに積まれたエンジンを思う度に、故「おやっさん」
の豪快な笑顔が思い出されて、なんとなく、おなじ日本人に生まれ
た事を誇りに思うのである。


        【一緒に暮らしたクルマたち】

            ビートル


 BMWが拡販に成功しているのに刺激されてか、あのVW本社が、
ヤナセの反対を力で押しきり、大手の中古車ネットやトヨタと組ん
で日本に進出してきた。
 実際に自分のお金で買った人ならよく知っていると思うが、初代
ゴルフは決して「壊れない」クルマなんかじゃなかった。クーラー
全開の渋滞路では水温は上昇し、パーコレーションで突然のエンス
ト。自動車評論家の絶賛を真に受けて購入したはいいが、エンジン
オイルがミッションへとリークし、いったいどこが「信頼性の」ゴ
ルフなんじゃろかと思った人も多いに違いない。
 そんな初期型ゴルフの欠点をカバーし、今日の日本でこれほどま
でに普及させたのは、ひとえにヤナセの尽力のたまものである。

 およそ商売で一番大事なものは、何をおいても「信用」であり、
面倒くさいから疑わないといった程度のまやかしではない、この相
手ならば一緒に組んでも大丈夫という、正真正銘の、大人の世界の
「信用」にまさる財産は、少なくとも商売人の世界には、他にない。
 ここまでVWを「商品」として大切に扱い、本国では到底羨望の
対象には成りえぬような大衆車にステータスをすら与えたヤナセか
ら輸入権を取り上げ、BMWの猿真似をして日本に設立したVAN
なる現地法人が、日本での販売を肩代わりする事になって数年がす
ぎた。
 当初、VWは前年対比70パーセント、アウディは35パーセン
トの、目を覆わんばかりの記録的な売上となった。ヤナセという企
業の信用の上に成り立っていた付加価値を失えば、高性能サルーン
として世界中で認知されているBMWの真似をしたところで、何の
取り柄もない実直なサルーンにすぎないVWやアウディが、あんな
楽天的な価格設定で売れる時代ではなかったわけだ。

 さて、今でこそたいした個性を持たないVWであるが、僕が子供
の頃には、VWはとても特別なクルマであった。そう、「かぶと虫」
と呼ばれたあのビートル・ワーゲンこそが、VWのイメージのすべ
てであったのだ。後年、ロータリーエンジンの開発の商業的失敗で
傾いたNSUを吸収し、K70という新世代のFFセダンを教科書
にして開発したゴルフが世に出るまでは、あの、「うんこをしてい
る犬のような」シルエットのビートルこそが、「ザ・VW」であっ
たのである。
 
 学生時代、僕は、6Vのバッテリーを使用していた頃のビートル
を、7万円で購入した。「品質の良い」はずのドイツの鉄板ですら
もあちこち腐り、ベアリングやジョイントはぐらぐらのがたがたで
あった。
 一般に、人気のある外国車をちゅうぶるで購入して乗り回す人は、
整備にお金をかけない。整備の内容にはまったく無頓着で、車検を
更新するための金額にだけ、神経質なほどにうるさい人が多い。
 整備屋から見れば、こういうしみったれた見栄っぱりというのは
とても良いカモで、下回りにスチームかけて黒ニスでも吹いておけ
ばOKである。で、当然、そういう連中の乗り回していたクルマは、
ほとんど、クルマだったものの残骸のような中古車となって流通す
る。
 僕は、そういう残骸のようなビートルを、それと承知で購入して
みた。道楽とは、本来そういうものである。

 まず、交換時期がきているにもかかわらず、そのままで使われ続
けて摩滅した、見るも無惨なナックルアームのジョイントやハブベ
アリングを見て、僕はさっそく事故車を捜しにいった。幸いな事に、
追突されて廃車になった真新しいやつが見つかり、そのフロントサ
スをシャシーの前半ごとごっそり移植した。金額的には微少である。
 次に、ブレーキシステムのパーツを新品に入れ替え、あとは手つ
かずの状態でナンバーを取得し、通勤と通学に使い始めた。止まる
事さえできれば、この国では死ぬことはあるまい。

 ビートルは、確かに質実剛健なドイツの道具であった。しかるべ
き部品をしかるべき時期に交換さえすれば、いつまでも新車のよう
に無頓着に乗り回せるような、そういう造りになっていた。最初は、
そういう理詰めの設計に感銘を受け、さすがドイツの機械は違うわ
いと、ミーハーにドイツを褒めたたえていたのだが、すぐに厭きた。
 運転していて、全然楽しくないのである。なんというか、まるで
お仕事をしているようなのだ。ビートルには、フロンテクーペのよ
うなわくわくもなければ、スカGのようなパワーも安定感もなかっ
た。道具としては最高なのかもしれないが、趣味の対象には、少な
くとも僕にとっては、ならなかったのである。

 で、ひととおり整備がおわって落ちついてきたころ、僕はビート
ルの改造を始めたのである。まず、ボディ表面を2400番の水ペ
ーパーで研ぎ、周囲を新聞紙でマスキングして、パネル一枚ごとに
「カンペラッカースプレー」で塗装を始めた。昔のブガッティなん
かにあるような、黒いボディに、フロントフェンダーから攻めてき
た赤が、ドアの少し後ろでぐるりと丸くなってちょんぎれる、アレ
である。2CVのチャールストンみたいな塗り分けである。
 そして、内装の内張りをはがし、当時流行していたコタツ敷きの
ムートンもどきを貼り込んだ。床は真っ赤、天井は真っ白、ドアの
中央は真っ白で周囲は真っ赤である。文章にすると少し派手に思え
るかも知れないが、実物は「少し」なんてものでなくて「ちからい
っぱい」派手であった。これと比べたら、ヤンキーのセドリックな
んて、お通夜のようなもんだ。

 このクルマは、友人達に「クリスマス・ワーゲン」と呼ばれた。

       【一緒に暮らしたクルマたち】

            RX85


 日本の自動車技術は、ほとんどが外国の完成品のコピーから出発
している。アッカーマン・ステアリングシステム、デフレンシャル、
すべてのサスペンション・システム、エンジン、タイヤ、ワイパー、
エアー・コンディショナー、これらの多くの基本技術は、イギリス
やフランスやアメリカで開発・熟成されたものを、日本人が改良を
加えて使用しているにすぎない。
 だが、日本がただひとつ、胸を張って開発に参加したと言いきれ
る技術がある。ロータリーエンジンである。

 ヴァンケル博士が提唱した新しい作動理論に基づくエンジンは、
ドイツのNSU社を中心に、フランスのシトロエン、ドイツのダイ
ムラー・ベンツ、日本のニッサン、スズキ、ヤンマー、そしてマツ
ダ等が協力して開発を続けた。だが、本家NSUではシングルロー
タリーを積んだNSUスパイダーについで発売した高級FFセダン、
「NSU Ro80」の失敗により、通常のエンジンを積んだ兄弟
車種、「K70」による失地挽回を果たす余裕もないまま、VW社
に吸収されて舞台を降りた。
 そしてロータリーエンジンは、構造的な理由によるその燃焼温度
の低さから、当時の排気ガス対策への対応が困難であると敬遠され、
やっとそれが解決した時に起こった石油ショックでは、燃料消費の
大きさが敬遠され、開発に参加していたメーカーは次々と手をひい
ていった。

 その中でただ一社、マツダだけがロータリーエンジンの実用化に
むけて黙々と努力を続けていた。やがて彼らの努力は実を結び、レ
ース運営者が、ロータリーエンジンを勝たせないために規則を作り
変えるような事態を招くところまで優秀なエンジンに、今日、成長
しているのである。

 そのマツダロータリーエンジンの量産化第一弾が、ファミリア・
ロータリークーペであった。これは発売前の年のモーターショウで
「RX85」のコードネームで出品された試作車そのもので、80
0キロをほんのわずか越えるだけの軽量な車体に、コスモスポーツ
のエンジンを少し安く仕上げた100馬力のエンジンを登載した、
当時ではすさまじい動力性能のスポーツカーであった。
 なんせ、クラウンのスポーツタイプですら125馬力、サファリ
ラリーで活躍したP510ブルーバードSSSが100馬力だった
時代であるから、せいぜい80馬力で「クラス最高」と言われてい
た大衆車のクーペの中では、ダントツの存在であったのである。

 僕はこのクルマを、1万5千円で手に入れた。今でもそうだが、
当時はマツダのクルマは下取り価格が低く、他銘柄のクルマに乗り
換えるときには二束三文で買いたたかれたのである。このへんの価
格維持の能力が、トヨタやヤナセが業界トップを維持している本当
の理由である。ともあれ、新車で70万もするクルマを、5年あと
に現金一括払いで購入できたわけで、僕にとってはとても好運な状
況ではあった。

 このクルマは、具合が悪くなっていたエンジンを、解体屋で五千
円で買ってきた事故車のやつに乗せ換え、弱い電装品を少し高級な
やつに取り替えただけで、快調に走り続けた。
 ダウンドラフト4バレルというまるでアメ車みたいなキャブは、
アクセルが途中から重くなるところから踏み込めば、そこからさら
にぐいぐいと加速を続けた。深夜や早朝の高速道路、メーターは1
80を軽々と振り切り、みしみしと振動するふにゃふにゃのボデイ
と風切り音の他には、二サイクルのそれとよく似た排気音が後ろで
ささやいているだけの、とても静かなクルマだった。
 現代の優秀なクルマや、当時のヨーロッパ製のクルマは、何のテ
クニックも運動神経も持たないドライバーであっても、金さえ払え
ば200キロの世界へ連れていってくれるが、あの当時は、それは
とても「コワイ」世界だった。最近の高性能なオープンカーの試乗
記なんかを本で読むと、30位のレポーターが「スカットルシェイ
クが・・・・」等とよく書いているけれど、僕たちには愛敬にしか
感じられない。戦後の食料難に育った世代が、グルメ番組を見るの
と同じ感覚かもしれない。

 T字型のダッシュボードにメッキリングに縁どられた円形のメー
ター、まんまるのシフトノブ、黒一色の室内から覗く外の世界、当
時としては太い185のラジアルタイヤに履き変えたエルスターの
メッキホィール、ベレGもケンメリもGTOもぶち抜く加速、今の
高性能な国産車のどれよりも、あのころのあのクルマは、僕にとっ
てはるかにずっと、「スポーツカー」であった。

        【一緒に暮らしたクルマたち】

            クラウンバン


 少し前のクラウンは、ものすごい不評に応えてデザイン変更を受
けた。日産の初代インフィニティも、同じような理由でフロントの
デザインを変更して立派なグリルを貼り付けた。ま、ヨーロッパか
ぶれの多いデザイナーにしてみれば、日本人の顧客のセンスが悪い
とぶーぶー文句を言っている事だろう。僕もそう思う。
 だけど、メルツェデスやBMWのデザインが日本で高い評価を受
けているのは、その背後にあるイメージがものを言っているのであ
って、もしもメルツェデスが、メッキでぎらぎらのお仏壇のような
Sクラスを発表すれば、ほとんどのジャーナリストはそれを褒めち
ぎり、樹脂で覆われた国産車を馬鹿にする事だろう。あながち有り
得ない事ではない。リサイクルを真剣に考えるなら、金属ほど優秀
な材料はないからだ。

 クラウンのデザインに話を戻そう。若いジャーナリストは、大企
業イコール保守的というシンプルな思いこみで、トヨタのデザイン
を軽んじるが、トヨタほど冒険的な事をやるメーカーは、ほかにな
いと思う。
 ハッチバッククーペもミッドシップスポーツカーも、5ドアセダ
ンもハードトップクーペもステーションワゴンもスポーツピックア
ップも4WDオフローダーも、日本で本格的にやりだしたのは、い
つもトヨタである。

 そのトヨタが、今から20年以上も前に、空気抵抗の軽減をテー
マにしてクラウンをデザインした。そう、MS60、ひと呼んで「
なまずのクラウン」である。その前の「白いクラウン」で、クラス
初の流麗なハードトップクーペとツインキャブのSLを武器に、ヨ
ーロッパ調尻垂れデザインのセドリックを突き放して、好調なセー
ルスを続けたクラウンは、手堅いモデルチェンジをせずに、このク
ラスのユーザーを教育しようという前向きな姿勢で、ベンツがきん
きらきんのSクラスを発表していた時代に、世界中の自動車メーカ
ーがびびるようなデザインを採用したのである。
 結果は、大失敗だった。「白いクラウン」そっくりにデザインさ
れた230型セドリックに、腹のでたざいごのおっさんであるユー
ザーを根こそぎ奪われ、スピンドルシェイプと呼ばれた流線型のボ
ディは、マイナーチェンジでメッキぎらぎらに変更されたのである。
 
 僕は、マイナーチェンジ前のこのクラウンのライトバンを、7万
円で手にいれた。M型6気筒シングルキャブと、コラムシフト3段
のマニュアルミッションである。
 古いマニアならわかると思うが、MS70Vの形式を持つこのラ
イトバンは、ベルトーネのジャガー・ピラーナ、ランボルギーニ・
マルツァル、それを製品化したエスパーダ、それらの影響を受けた
ベレットスポーツワゴン、あるいは二代目ロータスエリートの流れ
をくむ、潜水艦を連想させるようななめらかなワゴンボディを持っ
ていた。
 
 僕はこのクラウンを、手に入れると同時に改造し始めた。まず、
ベンチシートの運転席を取り外し、「愛のスカG」のリクライニン
グシートを押し込んだ。そして、秋葉原の怪しげなビルで入手した
TVを、プランターを改造したセンターコンソールにセットした。
 次に、ボディを生のシルバーに、エアゾール式のラッカーでペイ
ントした。そして、ボンネットと太いリアクゥオーターパネルから
前のルーフを、艶消しの黒に塗った。ボディ側面の下の方も、同じ
く黒く塗った。当時流行ったデ・トマゾ流のツートーンカラーであ
る。このクルマは、とても目立った。なんせ、スーパーカーブーム
だった当時に、甲州街道を走るこのクルマを見て、歩道橋の上から
じゃりんこが200ミリズームでかしゃかしゃ撮影してたぐらいで
ある。

 今でこそナウいおっさんがしたり顔で「ステーションワゴン」な
んて呼ぶけれど、当時はプロだってそんな単語は知らなかった。サ
スだってエンジンだって、セダンと比べたら格下の安物しか選べな
かった時代である。しかし、ド派手な塗装と、荷室に設置したハン
ドメイドの大容量スピーカー、手作りのマトリクス4チャンネルシ
ステムのステレオやカーTV、誰もこいつを商用車だとは気づかな
かった。銀色の車体を鈍く光らせ、僕のクラウンバンは、海水浴や
恋人との旅行にと、とても便利で快適な道具として活躍した。クー
ラーなんてなかったけれど、夕方になれば快適だったよ。

 窓を全開にして、陽の傾いた真夏の海辺をゆったりと流す。モー
ターボートを思わせる広大なボンネットの下では、75ミリのボア・
ストロークを持つM型6気筒が、わずか2000回転でゆるゆると
回っている。パワーアシストを持たないステアリングに左手を添え、
全開にした窓に肘を乗せて身体を預ける。
 コカコーラのCMソングが軽いビートで体を揺らす。助手席の相
棒はタバコに火をつけ、一服吸ってから僕の口に押し込む。日に焼
けた肌を潮風が撫でる。
 明日はいつもまぶしく光っていたあの頃、僕たちを乗せて疾走し
ていたあのクルマは、それこそ、望めば地の果てまでも走り続けて
くれる、万能のクルーザーだった。

        【一緒に暮らしたクルマたち】

           すばる1000


 イギリスフォードに、コルセアというクルマがあった。クラウン
位の大きさなのだが、田舎の中学生であった僕は写真でしか知らず、
スバル1000とそっくりだなぁ等と思っていた。ボンネット先端
がつるんと丸まって落ちており、丸いヘッドライトがぽこりとはめ
込まれている、そんなフロントグリルのデザインが似ていただけで
ある。

 昭和40年代の初め、ニッサンからサニーが、トヨタからカロー
ラが、マツダとダイハツからは、ライトバンから派生したファミリ
アとコンパーノが、ミツビシからはライトバンのようなセダンのコ
ルトFシリーズが、ぞくぞくと発売になっていた。それらの大衆車
は、ルノーから学んだコンテッサ以外はすべてFRで、ライトバン
ゆずりの板バネのサスペンションを持っていた。もっとも、当時は
自動車マニアなんて数が少なく、修理屋の親父以外はサスペンショ
ンやブレーキの知識なんてほとんど持っていなかった時代である。
 そんな時代に、中島飛行機の血を受け継ぐ富士重工業より、世界
中の自動車メーカー経営者が唖然とするような大衆車がデビューし
た。それがスバル1000である。

 このクルマは、アルミニウム製の水平対向4気筒エンジンを縦に
置き、高価な等速ジョイントで前輪を駆動するFFであった。しか
も、ブレーキは車輪の裏ではなくてデフの両わきにある、インボー
ドブレーキである。さらに、サスペンションにはポルシェと同じト
ーションバースプリングを用い、ラジエーターは2個にしてファン
を省略してあった。当時は、オイルカップリングのスリップファン
などまだなく、高速回転時のパワーロスを嫌ったのだろう。
 このクルマの先進性は、その後シトロエンGSやアルファスッド
の基本構造に影響を与えたことからも伺える。国産車が外国車の手
本となった例は、僕の知る限りではスバルだけである。ああ、もう
ひとつあった。レオーネ四輪駆動がアウディに影響を与えたな。

 昭和52年に、僕はバイト先でこのクルマを足として使っていた。
今ではめっきり少なくなった、コラムシフトのマニュアル4段であ
る。アタマでしかクルマを理解しない人は、およそスポーティでは
ないと想像するかもしれないが、僕はこのクルマに乗って心底感心
した。たかが135の12という、か細いラジアルタイアを履いた
このセダンは、とんでもなく速かったのである。
 東京堂のH150サスを組み込み、エルスターの5インチメッキ
ホイルに165のRD201で足を固めたスプリンターSLが、コ
ーナーではスバルの敵ではないのだ。空荷のトラックのようにぴょ
こぴょこ跳ねるスプリンターに対し、柔らかくねっとりと粘るスバ
ルのサスは、派手な音などまるで立てずにクルマを前へ前へと進め
る。しかも、たった55馬力しかないはずのエンジンは、低いギア
で引っ張ってやりさえすればぐいぐいと加速する。それまで、CM
や雑誌の記事で頭に描いていた「性能」というものは、所詮、机上
の空論というやつだったのである。
 軽飛行機のような頼りない排気音をまき散らし、僕のドノーマル
のスバルは、甲州街道をちょこちょこ走り回った。助手席では、陸
走屋の姐御がベルトを締めてふんばっている。こっちも、横になっ
てコーナーを抜けるセドリックで恐い思いをしてるからオアイコだ。
チェリーX1にこそ負けるものの、ヘタクソの乗るセリカ位は、つ
んつん追い回して遊べたもんだ。

 なんにも邪魔もののないフラットな床、ちょこんとメーターが囲
ってあるだけのあっさりとしたダッシュボード、死体が3つくらい
はすっぽり収まりそうなトランク、スペアタイアに至ってはボンネ
ットの中、エンジンの上にある。まさに、FFならではの効率の良
いボディによって、スバル1000はファミリーカーとしては十分
以上の居住性を持っていた。
 しかも、バランス良くぐいぐい回るエンジンと軽いボディ、そし
てほどよくセッティングされたギアレシオと素性の良いサスペンシ
ョンによって、このクルマは、形だけのスポーツクーペなんか足元
にも及ばないほどの走行性能を秘めていた。
 このクルマをしばらく足として使ってからは、それまで、せいぜ
いデザインの違いしかないとしか思っていなかったファミリーセダ
ンにも、それを造る人の志によっては、天と地ほども出来上がりに
差があるものだということが、実感として理解出来るようになった
のである。

 僕はこのセダンを、DSの次に素晴らしいと思っている。




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